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 タイ 「労働賃金の上昇と中所得国の罠」

2011年8月31日

タイでは7月3日に総選挙が行われ、タイ愛国党の流れを汲むタイ貢献党が、これまでの政権与党であった民主党を抑え、単独過半数となる265議席を獲得した。8月8日の国王承認を経てタクシン元首相の実妹インラック氏がタイ国初の女性首相に就任し、同10日は少数政党5党との連立政権が発足している。

新政権は、最低賃金の大幅引き上げなど、貧困層の底上げによって内需拡大を狙う経済政策を施政方針として掲げている。しかし、こうした政策は進出日系企業を含む民間企業にとって労働力コストの上昇要因となり、人材不足により労働力確保が困難となっている現状に追い打ちをかける形で、事業環境悪化が懸念されている。さらにはこうした事態がタイへの外資流入を阻害し、結果、タイ経済が停滞するとの見方もある。

国民一人あたりのGDPが既に4,000米ドルを超え、発展途上国から中進国へと変わりゆくタイ。いわゆる「中所得国の罠」(Middle Income Trap)に陥り、経済発展停滞の危険性が懸念される中、「最低賃金引き上げ」がもたらす影響、新政権が推進すべき政策を考える。

<対立の背景にある経済格差>

2001年に発足したタイ愛国党タクシン政権は、1997年に発生した経済危機からの経済立て直しに大きく貢献したという高評価の一方、利益誘導的な政治手法が汚職にあたる等との批判も受けた政権であった。タクシン氏は2006年9月の軍事クーデターによって政権が崩壊し、自身が国外追放されて以降も、2008年に発生した反タクシン派の「黄服」による国際空港占拠、2010年タクシン支持派の「赤服」によるバンコクの中心部占拠など、混迷するタイの政治舞台の「陰の主役」として、場外からその影響力を発揮し続けてきた。

単に汚職行為の摘発による政権失脚という形で収束せず、国家をニ分しての対立構造が今もなお継続する背景には、タクシン氏を支持する農村部の貧困層と、反タクシン派の都市部の富裕層・知識人層との間の大きな所得格差という根本的な問題がある。タイ国家経済社会開発協議会(NESDB)によると、バンコク周辺部の地域別一人あたりGDPが329,885バーツ(約89万円、2009年時点)であるのに対し、最貧地域である東北部は45,766バーツ(約12万円、同)と、7倍以上の格差が存在している。

かつて政権与党時代、貧困層への「ばらまき」とも揶揄される支援策によって同層からの支持を確立したタイ愛国党。その流れを汲むタイ貢献党が、今回の選挙において数々の貧困層支援策を公約に掲げ、勝利した。インラック首相は8月23日に行った所信表明演説において、最低賃金の引き上げを重要政策と位置づけ、1年以内に法定最低賃金を一律300バーツ/日(約810円、現在は159~221バーツ)、大卒公務員初任給を15,000バーツ/月(約4万円、現在は8,700バーツ)に引き上げると宣言している。

選挙という民主主義国家としてのデュー・プロセス(適正手続)を経て、タイは国家としてこの貧富の格差を是正しながら内需を拡大する形で経済を発展させる方向に進むことを選択したのである。この意味において、タイ貢献党が重要政策として掲げる「最低賃金引き上げ」は、国家発展の方向性に関する民意に沿った政策と言えるだろう。


<「中所得国の罠」からの脱却と最低賃金引き上げ>

「中所得国の罠」とは、これまで安価な労働力コストを武器に産業を誘致し発展してきた途上国が、経済発展に伴う労働力コストの上昇によって優位性を失い、発展速度が急速に鈍化する現象である。タイはこれまで自動車産業を中心に多くの投資を呼び込み、ASEANの製造拠点として急速に発展してきた。しかし近年、ワーカーの賃金上昇が顕著となってきており、労働集約型産業企業の中には他国への移転を余儀なくされているケースも出ている。こうした状態が進展して産業発展の推進力を失う危険性、まさに「中所得国の罠」がタイのさらなる経済発展を阻害しようとしている。

タイが今後、中進国からさらに先進国へのステップを踏んでいくためには、経済発展に伴う自然な賃金上昇は避けられないことは確かである。たとえ同業界や同地域の企業が協定などによって賃金上昇幅を決めて抑制しようとしても、一時的かつ限定的な効果しか得られないだろう。しかし、あくまで自発的、自然発生的であるべき賃金上昇を、「最低賃金引き上げ」という形で政府主導によって強行に推し進めてしまうと、タイ国内の産業界に大きな混乱をひき起こすばかりか、企業のアジア地域における生産戦略にも大きな影響を与え、却ってタイ経済を減速させる危険性がある。

「中所得国の罠」からの脱却は、外部要因による抑制や促進を加えることではなく、中所得国としての利点、ポジショニングを活かして新たな価値の創造によってこそ実現できるものではないだろうか。教育水準の向上によって付加価値の高い労働力を相応に比較的安価なコストで企業に提供することで製造拠点としての魅力を維持しつつ、イノベーションによって、現在、タイが持っていない世界に通用する産業、ブランドを創り上げていく。こうしたイノベーティブな中長期の産業育成計画を立案し、実行を後押しする政策の実現こそ、新政府が優先的課題として実行すべき事項である。

タクシン氏は8月23日、日本・中国・ASEAN 経済文化研究会主催の講演会で、「タイが中所得国の罠を回避するためには、「起業家の育成」を中心に種々の経済政策を組み合わせて実行していく必要がある。」と述べた。首相時代にはタイ政府のCEO(最高経営責任者)と自らを称し、辣腕をふるって自国の経済発展に大きな功績を残した同氏には、その強引な手法に対する批判は数あれども、タイの持続的経済発展に向けた明確なビジョンがある。しかし同時に、講演の中でタイ貢献党の最低賃金引き上げ政策の「正当性」も訴える同氏の様子からは、国内支持基盤層への阿りも覗える。

労働力の高付加価値化、新産業・ブランドの創出、起業家育成などに加え、未だ労働賃金の安価な近隣諸国からの労働力受入緩和などの手段を組み合わせ、いかに国際競争力を失わずにバランスを保ち発展していくか。タイの動向はASEAN全体の今後の発展に大きな影響を及ぼすだろう。

(石毛 寛人)

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